うちのお袋はクリスチャンなので、週に何度か、朝からミサに出かけます。
私の家は浄土宗で、(私自身は無宗教のつもりですが)知恩院さんにもちょこちょこ出向きます。
お袋は仏事もやってくれてますが、元々由緒正しい(?)隠れキリシタンの家系なので、個人的にはカトリック信者です。
で、まあ、私も結構子供の頃から、お寺に行く程度には教会に行く機会も多かったので、
それなりにカトリックの風習も知ってるわけですが、どうも浦上のそれと、他所ではかなり空気が違うようで。
まず、ミサは毎朝やってないそうな。しかも朝遅い。(長崎では06:00くらいからやってますね。)
神父が少ないからだそうで、今、近くの教会に来てくれてる神父は韓国人だそうです。
(韓国というと、プロテスタントや、インチキキリスト教が目立ちますが、ちゃんとしたバチカン系カトリックもあるようですね。
調べてみると、日本と同じく弾圧の歴史だったみたいですが。)
長崎には司祭は沢山居るのに・・・信者数が少ないとはいえ、ミサの機会に差が出るのは何故なんでしょう?
(ちなみに、神父というか、司祭は通常独身者です。ある程度口減らしの意味合いもあったのでしょうか、
昔は長崎では、信者の家の次男坊などがその道に就いていました。
対象者を「神様に捧げる」という言い方をよくしますね。別に「生贄」という意味じゃないですよ?)
信者の空気も大分違っていて、長崎では「先祖がカトリック」なので信者である人が多いため、
それこそ生まれた時からの、家や地域の生活・風習に根付いています。
宗教こそ違え、季節毎に菩提寺に先祖供養に出かけたり、初詣や夏祭りに行ったりするのと、あまり変わるところはありません。
ところが他所では、割と新しく入信した人が多くなりますので、そういった祭事・儀礼的な事よりも、
もっと自身の信仰的な部分や、布教などに傾倒するところが強く、なんだかサークルとか市民活動的な雰囲気に近い気がします。
その所為かとも思うのですが、大きく違うのが「教会の予算」。
長崎の信者さんは、仏教と同じく、「祖先を奉じる」ために頻繁に祭事を行うため、そのための「お布施」も結構集まります。
ですが、他の地域ですとなかなかそうも行かず、所属している司祭の数も当然少なくなるわけです。
こんなQ&Aもあったりして、
信仰にお布施の額やら、世俗めいた話を持ち出すのがタブー視される傾向にありますが、
長崎のカトリックの例でも分かるように、教会とか、菩提寺とか、氏神様とか、実はコミュニティの柱である意味合いの
方が実は強いのではないかと思います。
(元々、教会とは建物を指す言葉ではなく、コミュニティそのものを指す言葉ですし。)
その中には、やはりコミュニティを維持していくための活動も必要で、困ったときにはお互いに支え合うといった、
例えば金銭的、実質的な相互扶助も不可欠なのではないかと思うわけです。
それこそ、信教の話にコストやら見返りやらを考えている方がどうかしているようにも感じます。
(まあ、確かに、いっそ毎月定額、さらには引き落としとかにしてくれると、坊さんの方も気が楽なんじゃないかなぁなんて
思ったりしますけど、それじゃおそらく誰もお参りに来なくなって、本末転倒かな?)
私は特に信心する宗教も無いわけですが、そこはそれ、祖先を敬う風習は、親類や地域の人達との繋がりを維持していく上でも
風習やしきたりは必要だと思ってますので、そこのところのあまりコストは気にしてません。
周りに気を使わせない程度に、その時払える上限を出せばいいんじゃないかと思ってます。(結構、色付けちゃう癖はありますが。)
慶弔は予定が立つものでもないですし、何時周りに頼ることになるやもしれませんしね。